第134回『法楽寺わらく読書会』で著書:森信三「修身教授録」を輪読@大阪市
5月8日、第134回『法楽寺わらく読書会』を、いつもの「法楽寺くすのき文庫」にて無事開催いたしました。
今回は『修身教授録』第1部・第17講『一道をひらく者(II)』を取り上げ、冥界からのご参加者を含む10名で輪読し、深い感想を共有しました。
森信三先生の第17講「一道をひらく者(II)」を読み進めるうちに、私の心には高村光太郎の詩『道程』の一節、「僕の前に道はない 僕の後ろに道はできる」が響いてきました。
「国民教育の師父」と称される森先生は、日本を深く愛し、真の教育のあり方を追求し続けた「憂国の士」です。本講において先生は、将来の教育者となる生徒たちを「国民教育の卵」と捉え、人格形成と責任感の重要性を厳しく説きながら、「一道をひらく」ことの真髄を伝えています。
森先生の説く「一道をひらく者」の「道」とは、いかなる職種であれ、その仕事に一生の命をかけ、人間として深い教養と人格を備えていく「一筋の精進のあり方」にほかなりません。天王寺師範学校時代における先生にとって、その精進のあり方こそが、まさに「教育者としての道(師道)」であったと言えます。
この講を通じて森先生が説かれたのは、「自らの職責に徹して生きることで、初めて自分だけの道を切り拓き、社会に貢献できる」という人生の真理です。
森先生は、明治維新から70年近くが経過してもなお、国民教育の行く末を照らす「巨人」が現れない現状を深く嘆かれています。そこには、二つの重要なメッセージが込められていると私は感じました。
一つは、自らが「巨人」にならんとする大志を抱き、道を切り拓くパイオニアとしての生き方。もう一つは、次代の巨人が現れるよう、後進のために道を整えるフォロワーとしての生き方です。
アイザック・ニュートンは、かってロバート・フックへの手紙に「私が遠くを見渡せたのは、巨人の肩の上に立ったからです」と記しました。これは、先人の築いた道を尊び、支える存在があってこそ、新しい地平が開けることを示唆しています。
未踏の海へ飛び込む「ファーストペンギン」のような気概を持つこと。そして、その道を支え、次代へと繋いでいくこと。この両輪の大切さを、私はこの講から学びました。
以上が、この講に対する要約と私の感想です。次に、この教えを受けて読書会で参加者の皆様からいただいた感想をご紹介します。
「魂はすべてのものに宿ると信じています。一道をひらく者として、私自身は『歌霊の体現者(ジッセンジャー)』となり、その道を極めていきたい。歌に波動が乗り、聴く人の心と共鳴できた瞬間の感激は、何物にも代えがたい素晴らしさがあります」
「森先生が教室に入られるや、真っ先に黒板を綺麗に拭き上げられた姿に深い感銘を受けました。物事を始める前の準備や心構え、すなわち『始まる前の所作』がいかに大切かを教えられた思いです。また、あれほどの偉大な先生でありながら非常に謙虚で、ご自身を『まだまだ』とされる姿勢に胸を打たれました」
「『一道をひらくということは、それによって自分自身が救われると共に、さらに後に来る同じ道をたどる人に対して、その行く手を照らすという意味がなければならぬ』この一文に深く感銘を受けました。たとえ周囲に目立つ人がいなくても、自分が「一道をひらく者」として志を立てて行動し、言葉にしていけば、必ず共感し共有してくれる人が現れ、後世へつながっていく。この文章は、『あなたも早く自分の道(一道)を見つけなさい』と私たちに促しているのだと思いました。」
「『一道をひらく』という先人の労苦は、計り知れないほど尊いものです。道なき場所に線路を敷くような大変な努力があるからこそ、私たちは後から続くことができます。ノーベル賞を受賞された江崎玲於奈氏が『先人のおかげ』と語られたように、いかなる偉業も繋がりの上に成り立っています。私たちも、それぞれが『一隅を照らす』活動をすることが大切です。それは決して大きなことでなくても、素晴らしい笑顔や優しい言葉かけなど、身近な長所を生かすこと。そうした積み重ねが、後に来る人の助けとなるはずです。また、音霊・言霊・数霊など、目に見えないものを大切にしてきた日本人の感性も素晴らしいものです。特に『音を観る』という観音の精神や、縄文時代から続く五七調のリズムは、私たちの心に深く根ざしています。和歌や俳句に親しみ、そうした繊細な感覚を磨くことも、日本人としての心の豊かさに繋がっていくのではないでしょうか。」
「本講のテーマ『一道をひらく者』に基づき手本となる『この人を見よ!』という人物を探す際、森先生は『明治以降には中々見当たらない』と仰いました。しかし、日々の『今ここ』に一生懸命生きる中でビビッと響くものに出逢い、人や言葉との出逢いを通じて、自らの『みこと(使命・天命)』が開かれることは確かにあります。そうして信念に基づき行動し続ける中で、絶妙のタイミングで『この人こそが!』という真の出逢いが訪れるのではないでしょうか。まだま村の立花之則さんが『一瞬の出逢いで人生が決まり、一つの言葉で運命が変わる』と常に唱えられていた通りだと思います。その出逢いに至るまでの『レディネス(準備態)』という心の準備ができていれば、運命の瞬間に『あっ!この人だ』『この言葉だ!』と確信を持って出逢えるのだと感じます。私にとっての『一道をひらく』とは、地球の『わくわく星』を見出し、皆様と共に、さらにわくわくする星づくりをわくわくしながら進めていくことです。これが私の使命(天命・みこと)だと感じています。」
「森先生の『はきものをそろえる』という教えは、『黒板をきれいにする』ということにも通じます。私は伝統文化親子教室で、子どもたちに『どうしてはきものをそろえると思う?』と問いかけ、一緒に考える時間を大切にしています。『次に出るときに出やすいよね』『後始末をすると気持ちが整い、次の準備がきちんとできるんだよ』ということを、日常に引き寄せながら、想像を膨らませられるよう分かりやすく伝えています。森先生も、こうした教えを日々の暮らしの中で実践されていたのだと改めて実感しました。『一道をひらく』とは、自らが救われ、他者の役にも立つということです。自分の心の扉をひらくには勇気が要りますが、その鍵を回せるのは自分自身だけです。偉業の背景には、森先生が説く『謙虚さ』があります。ノーベル賞の山中伸弥教授が走る足を止め、お地蔵様や神社に手を合わせる姿がその象徴です。傲慢にならず、目に見えない加護への感謝と弛まぬ努力があったからこそ、あの大発見が生まれました。その謙虚な生き様は、言葉を超えて背中で語る『一筋の光』となり、次の世代へと繋がっていくのだと思います。」
以上、参加者の皆様からの貴重な気づきです。



補足として、森先生が「道を究める極意と心構え」を説かれた一端をご紹介します。
第一は、冒頭の序文にある「黒板をきれいに拭き上げられた」という所作にあります。森先生の提唱された教育の三原則には「時を守り、場を清め、礼を正す」がありますが、これは「場を清めることで、自らの心を清める」という教えにほかなりません。先生が自ら率先し、無言で黒板を拭く姿を示す。それによって生徒の魂にその姿勢を焼き付けるという、教育者としての背中であり、実践哲学の具現化なのです。
第二は、『下学雑話』の「作歌の心得」から読み解くことができます。作中にある「唯一人の大家の作品を暗誦するまでになれ」という教えは、まさに江戸時代の寺子屋で行われていた四書五経の「素読」の本質そのものです。
「素読する 古(いにしえ)の声を 身に通し 吾(われ)のうちなる 光をひらく」
素読とは、聖人の教えを心身に刻み込む行為です。音霊(おとだま)という波動が言霊(ことだま)に乗り、初めて人間の魂へと刻印されるのです。
明治5年(1872)の学制公布は、欧米のペスタロッチ主義を導入し、「理解・概念化」を重視する教育をもたらした。これにより、それまでの伝統的教育であった素読(暗誦)は非効率として排斥されていった。しかし、吉田松陰、二宮尊徳、中江藤樹らに見られるように、幼少期からの素読は、単なる知識の暗記に留まらず、人間形成の礎となる高い精神性を養うものであった。森先生が「明治維新以後、国民教育の大野を照らす巨人が一人も現れない」と嘆かれたのも、実は幼少期における素読の習慣が失われたことに起因しているのかもしれません。
暦は立夏を告げ、紫陽花の緑濃い小さな蕾がひそかに産声を上げるころ。法楽寺の庭園には、早くも深い紫をまとった菖蒲が、涼やかに、そして清楚に佇んでいました。
「庭の陽(ひ)に 深き紫 菖蒲(あやめ)咲く 立夏(りっか)の涼を まとい佇(たたず)む」
この一期一会の学びを胸に、一日一日を丁寧に重ねていきたいと思います。
次回開催は、以下の通りです。
日時:令和8年6月12日(金)13:00〜15:00
場所:法楽寺くすのき文庫
内容:「修身教授録」第1部・第18講「人を植える道」輪読会 「森信三先生全一学ノート(新版)」ミニ輪読会
参加費:1,000円
※初めてご参加頂く方は、準備がございますので、前日までに下記にお名前、ご連絡先をお知らせ下さい。
《ご予約・お問合せ》
メール:mai@wadentou.com
TEL:090-4975-4000(後藤)
書記:
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